国学国学というのは儒教に違和感を持った日本人が明恵上人の「あるべきようは」を確認するために行った学問だと考えられます。契沖(けいちゅう 1640~1701)は荻生徂徠より一世代前の人で、徂徠の影響を受けていません。 彼は高野山で僧侶になりましたが、そこでサンスクリット語を学び言語学と文献学の訓練を受けています。 その後世俗化した高野山を出て放浪しましたが、26歳の時室生寺で修行中に自然の美しさに感じそのまま死のうとまでしました。 彼は色を好むという人間の本性のなかに「なさけ」という価値を見出しました。 晩年になって徳川光圀の援助を受けて万葉集の言葉の意味を明らかにすることで古代人の心を探求し「万葉代匠記」を書きました。 賀茂真淵(まぶち 1697~1769)は村の神社の神主の息子で幼い頃から万葉集の世界に憧れていました。 その後徂徠の古文辞学を学んで万葉集の研究を深めていきましたが、単に文献学の研究に留まらず万葉集の調べに古代精神を感じたのです。 その彼が理解した古代は、作為を排して「天地のままなる心」で生きた自然の世界でした。 真淵の後に続くのが本居宣長(1730~1801)です。 彼も徂徠の古文辞学を学び、また契沖に傾倒して古代精神に目覚めました。 また真淵からは歌の調べから古代の精神を感じるセンスを学びました。 このようにして彼は国学を完成させ「もののあはれ」を強調します。 「もののあはれ」とは、自然に存在する物の本来のあり方を認識し、それを感じることです。 そしてこの「もののあはれ」は人の良し悪しを判断する基準でもあります。 従ってこの「もののあはれ」を感じるのが人としての「道」です。 「もののあはれ」を知り、共感・同情できる人は「心ある人」で、我が強く感じることのできない人は「心ない人」です。 この「もののあはれ」は学問をして身に付くというものではなく、自然な感情のままに生きれば得られます。 自然に存在する物の本来のあり方とは明恵上人のいう「あるべきようは」と全く同じです。 自然に存在する物(人や社会も含む)が本来あるべき位置のことです。 宣長は人としての「道」は自然に出来たものではなく、日本を作ったイザナギ・イザナミのミコトが定め、天照大神が受け継ぎさらに代々の天皇に伝えられている道だとしています。 この考え方は徂徠の影響を受けています。 徂徠は政治とは良い政治制度を作ることだと考えました。 そして古代チャイナの政治制度が一番良いと考えました。 宣長はこの考え方を日本に適用して、日本の創始者であるイザナミ・イザナミのミコトが「もののあはれ」という「道」を作ったのだとしました。 そしてこれらの神の子孫である天皇に代々伝えられていると考えたのです。 この「もののあはれ」の「道」は自然に存在するものをそのまま認める考え方ですから、徳川幕府も認めています。 またすでに存在している仏教や儒教という宗教も排撃しません。 これからも分るように国学は現実を変えるイデオロギーにはなりませんでした。 |